形式論ノート(3)

引き続き形式についての言説を紹介しよう。

 

<エイドリアン・フォーティー>

英語には「形」(フォルム)のただ一語しかないが、ドイツ語には「形態」(ゲシュタルト)と「形式」(フォルム)の二語があるからだ。形態は一般には感覚で受け取られたものとしての対象を言うが、形式はふつう具体的な個物からある程度抽象化することを含意している。

「言葉と建築」より

 

<磯崎 新>

≪建築≫は結論的にいえば、表題どおりに形式なのである。だから「≪建築」という形式」とは、同義反復しているにすぎない。≪建築≫その概念が発生することによって、ひとつのジャンルを構成した。ジャンルは自らの掟、すなわち広義の制度をかかえこんでいる。-中略―すなわち、形式を≪建築≫と等置することによって、建築の生成する機制でありかつ方式でもある、伝統的にポエティックスと呼ばれる部分にそれを接続したいと考えている。「建築という形式Ⅰ」

 

<坂本 一成>

硬直化し、凝り固まった私たちの身体が、ただ自由で気ままな姿勢をとるのでなく、気功や太極拳、またさまざまな体操の形式化された型に沿うことで、柔軟さを快復し、自由を獲得するように、構成されたある種の空間や場に関わることで快適な自由を獲得する、そんな構成の形式によって私たちに関わる建物を<構成の形式としての建築>と位置づけることができそうだ。「建築に内在する言葉」

 

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。故人を偲ぶ会を前に事務所のブログへも掲載させていただきます。

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