形式論ノート(10)

江戸末期の古民家を再生した。大和棟を持つ住宅である。明治、昭和と増築されていたが初期の姿に減築し、元の形式に戻した。内部は土間と板間で構成し、間仕切りの建具は取りはらい、4畳半の畳だけを象徴的に板間に配し茶室とした。 大きな屋根の下に一続きの空間があるのだが、大和棟という形式のもとに自由な空間を獲得した例である。

 

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。故人を偲ぶ会を前に事務所のブログへも掲載させていただきます。

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形式論ノート(9)

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の一節を紹介する。

すべての対象が与えられるとき、同時にすべての可能な事態も与えられる。

対象はすべての状況の可能性を含んでいる。

事態のうちに現れる可能性が対象の形式である。

世界の実体が規定しうるのは、ただ形式のみであり、実質的な世界のあり方ではない。なぜなら、世界のあり方は命題によってはじめて描写されるものであり、すなわち、諸対象の配列によってはじめて構成されるからである。

 

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。故人を偲ぶ会を前に事務所のブログへも掲載させていただきます。

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形式論ノート(8)

大橋良介氏の切れの構造に関心を持ったのは次のような文章があったからだ。
 -「切れ」は日本のプレ・現代(モダン)の美的造形においてあらわれ、日本のモダニズムの中で、内なる異世界として作用していた。いま日本のモダニズムそれ自身の熟成の中で、「切れ」はポスト・モダニズムを成立させる鍵としてあらわれている。-
ーもしも「ポスト」・モダニズム建築というものがその名にふさわいい内容をもつとするなら、それの少なくとも一つの方向はこの「切れ字」もしくは切れを含んだ言語としての建築だということができる。なぜなら、切れとは、技術の粋を尽くして自然をある仕方で自覚的に切ることであった。自然はその切れをくぐって技術の中に、ある仕方で蘇った。-
建築を言語としてとらえる見かたは、C・ジェンクス「ポストモダニズムの建築言語」にみられるように、ポスとモダンの特徴のようだが、ヴァレリーもゲーテも言語として捉えていた。重要なのは言語のもっている構造主義的なパラダイムを逸脱することにある。建築におけるポスト・モダンはその部分を理解していなかった。

 

貴志 雅樹

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形式論ノート(7)

切れの構成法を思い立ったのは、大橋良介氏の「切れの構造」-日本美と現代思想ー中央公論社による。切れ・つづきというように、他者と切れることにより他者を際立たせ融合するという概念。(連続・非連続の概念とは異なる。)これは現代進行中のS邸のプロジェクトにおいて、平面形式と屋根の形式とを切れの構造で融合させられないかと考えているからである。
以下、大橋氏の世阿弥の「花」の部分を引用する。
 華麗と簡素という二つの相反する方向はここで、互いに切れて独立しながら互いのあり方のうちへ浸透していく。ここに「切れ・つづき」の構造が成り立つのである。この切れ・つづきは、繰り返していえば人間が「生死」というあり方を背負っているところから生じるものである。-中略ー余剰を切り捨てるということは、日常的な自然性を切るということである。しかしその切れを通して日常的な自然性が、いっそう深い相において蘇るというところに、型の切れの本質がある。

貴志 雅樹

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形式論ノート(6)

日本建築は構成的ではないと言われるが、日本の芸術に見られる和の構成法としていくつか挙げる。①切れの構成(俳句などにみられる)②曖昧にしながら統合する構成(洛中洛外図の雲)③過去の文脈を利用する構成(枕詞・序詞)④増殖してゆく構成(雁行、九の間論)⑤天地人の構成(活け花)⑥余白の構成(書道)⑦重層の構成(庭園における見え隠れ)⑧ミニマルな構成(枯山水)⑨布石による構成(回遊式庭園)各構成法について、具定例を示すと同時に、建築について用いられているかどうかも考察してゆきたい。

貴志 雅樹

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市役所と亀

貴志です。

ここ数日、あたたかいというよりは暑くなってきましたね。

昨日、仕事で大阪市役所へ行った帰りの風景です。

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土佐堀川に亀がいました。

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水辺は涼しそうで、羨ましかったです。

 

今日から5月。

今年は特に時の経つのが早く感じます。

しっかりやるべきことをクリアしていかなければ…。

 

貴志 泰正

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形式論ノート(5)

建築の構成と建築の形式との関係だが、建築の構成法の定型化したものが、形式である。構成法とは建築の形態や空間を関係づけてゆく文法(Syntax)であって、形態や空間の意味(Semantics)を関係づけて建築を創出する。建築における構成法はいくつも存在するが、人間にとって有効に作用したもの(有効に作用しているもの)が形式として継承される。「構成的な建築」というのは、Syntaxレベルを際立たせ、形態や空間のSemanticsレベルに重点を置かない建築のことで、P・アイゼンマンの建築を例として挙げる事が出来る。アイゼンマンのグリッドで構成される建築には形態言語より、統辞してゆくグリッドに重点を置き創られている。アートで例えると、ロシア構成主義の抽象的な形態(脱色された形態の意味)をコンポッジトしたような作品である。

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。故人を偲ぶ会を前に事務所のブログへも掲載させていただきます。

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ひとりじゃ“ヤタイ”お披露目会@川上村

「屋台骨」が自身の材料「吉野杉」が生まれ育った川上村へ里帰りします。

ゴールデンウィーク期間中に奈良県吉野郡川上村にある 匠の聚(たくみのむら)において開催されるアートフェスティバルにおいて、5/4(月)のみ、吉野杉で制作された屋台「愛でつながるナガスギ」と「屋台骨」が登場します!!

この機会に、ひとりじゃ“ヤタイ”たちを囲んで、吉野の風を感じてみてください。
当日は、木工家 賀來 寿史さんの「つくれる屋台」も登場します。

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日時:2015年5月4日(月)10:00~15:00

場所:川上村 匠の聚(たくみのむら)

〒639-3541 奈良県吉野郡川上村東川(うのがわ)135

施設内で開催中のアートフェスティバルのフライヤー

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貴志雅樹を偲ぶ会

トップページでもお伝えさせていただいておりますが、弊社の創設者貴志雅樹を「偲ぶ会」を3月の富山に引き続き5月に大阪でも開催していただくこととなりました。

発起人の皆様、参加の御連絡をいただいている皆様にこの場をお借りして御礼を申し上げます。

有難うございます。

詳細は下記の通りです。

 

日時   201559日(土)午後530分~午後730(受付 午後430分から)

会場   綿業会館 新館7階大会場 大阪市中央区備後町2-5-8 TEL 06-6231-4881

※会費1万円(立食形式) 御香典・御供花等は御辞退申し上げます。

貴志雅樹さんを偲ぶ会 発起人
池上俊郎 北村陸夫 木原千利 小島孜 竹原義二 吉羽逸郎 吉村篤一 若林広幸

 

会場には余裕がございますので、御多用中のことと存じますが、お越しいただけましたら幸いです。

ご興味のある方はお気軽にお問い合わせくださいませ。

お問い合わせはこちらから

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1985

貴志です。

大阪生まれ大阪育ちの私は阪神タイガースファンなのですが、1985年といえば唯一タイガースが日本一に輝いた年です。

私は当時4歳でしたが、タイガースが強かった記憶はありまして、主要な選手の名前も認識していたように思います。(タイガースのパジャマを着て応援している写真も残っています。)

先日4月17日は伝説のバックスクリーン3連発の日でしたが、ランディ・バースが来日してイベントが企画されるなど、いまだにファンの脳裏に鮮やかな印象を残しているようです。

今年は2015年。

もう30年も経過しているのかと思うと、とても遠い出来事のように思います。

 

さて、最近車で移動するときにTHE BLUE HEARTS(ザ・ブルーハーツ)のCDをよく聴いています。

彼らがバンドを結成したのが1985年だそうで、30周年記念のCDを先日購入しました。

その1曲目に「1985」という曲が収録されているのですが、この曲の歌詞に

「僕達がまだ生まれてなかった40年前戦争に負けた」

というフレーズがあります。

そうか、1985年は戦後40年の年だったのかと、その一節が妙に心に残りました。

計算すれば当たり前のことなのですが、それから30年経過した今年2015年は戦後70年にあたる年です。

40年と70年…。

ブルーハーツが1985年当時に1945年をどれくらいの距離感で眺めていたのかはわかりませんが、人間の寿命を考えますと40年前と70年前では大きな違いがあるように感じてしまいます。

戦後生まれの父は今年65歳で亡くなりましたし、終戦時に20歳だった祖父(義母の父)もつい先日90歳で亡くなりました。

明治生まれの方はすでに100歳を超えています。

戦争を経験した方とお話しすることは年々難しくなっていくでしょう。

軽い話から書き始めてしまいましたが、2015年から1985年を眺めることで、より1945年というものを遠く感じたというのが今日書きたかった内容です。

私たちはすでに戦争というものにリアリティーを感じられないのかもしれませんが、そうであるからこそ想像力を働かせなければならないと思います。

 

貴志 泰正

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