カテゴリー別アーカイブ: 形式論ノート

形式論ノート(16)

N・シュルツの「実存・空間・建築」のなかで以下のように定義している。

・実存的空間とは比較的安定したシェマの体系、つまり環境の「イメージ」であり、たくさんの現象の類似性から抽象されて取り出された一つの一般化であって「対象としての性質」を有するものである。

・建築的空間とは実存的空間の「具体化」である。

 

形式論的にいうと、実存的空間とは建築の形式であり、具体的に出来上がった空間が建築であると言い換えられる。

しかし、実存的空間を具体化することが建築とはいいがたい。

建築の多様性を封じ込めるおそれがあるし、実存空間の存在を認めると、価値観を固定化する恐れがある。

本質的で固有なものの存在を追及するより関係性の中から空間を生み出さなければならない。

 

貴志 雅樹

(完)

 

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。

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形式論ノート(15)

日本の構成法として、「切れの構成」をを例にとると、長谷川櫂は和の思想の中で芭蕉の有名な俳句である

古池や蛙飛びこむ水の音

この句がどうして切れているかというと、芭蕉は蛙が飛び込むところを見ていない。

音をきいているだけである。

実際に古池に飛び込む蛙を見ていたら単なる写実である。

音を聞いて心の中にある古池をイメージしたという句で、現実社会と心の中の次元の異なる世界が同居していることになる。

「切れの構成」とは異次元のものを等価に扱う構成法である。

また、長谷川によると「和」とは異質なものを共存させる精神であり、それを可能にするのが「間」であり、「間」を創りだす方法が「切れる」ということであると述べている。

 

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。

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形式論ノート(14)

桜の季節だが、西洋では日本人ほど桜を愛でることがなかった。

花瓶に活けられた一輪のバラの方が好まれたようだ。

これはあくまでも主体がいて対象を見るという関係である。

それに対して、日本人は桜という対象に対して自己を投企する。

対象と主体が一体となる。

桜の中に包まれるという感覚が日本人の感性である。(「日本的感性」―触覚とずらしの構造―佐々木健一著、中公新書)

この視点に対する相違はパースと逆遠近法という西洋と日本の空間構成の違いかもしれない。

近代の視覚重視の空間構成に対して、嗅覚、触覚的な日本の空間構成について考察する必要がある。

 

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。

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形式論ノート(13)

断面形式として「入れ子」はよく用いられているが、形式的に純粋なものとしては毛綱毅曠の「反住器」で、3つの立方体の入れ子になっている。

立方体だけで住宅の内部空間を構成するというコンセプチュアルな作品である。

それに対して藤本壮介の「HOUSE N」も3層の入れ子になっているが、外部空間を含んだもので住宅として内部と外部の新しい関係を提案している。

反住器のマニエリスティックな形式に対して、HOUSE Nは入れ子を感じさせないものとなっている。

 

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。

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形式論ノート(12)

形式の変容例として、コートハウス形式について述べよう。コートハウス形式の基本は、コートあるいはアトリウムを中心として各室が取り囲む形式である。各室は中心のヴォイドから、光や風、湿度などを取り入れる。変容例としては、「ITO-HOUSE」(左図)「ウィークエンドハウス」(中図)など空間を分節するためにコートを取り入れる方法、「みちの家」(右図)のように中心のコートを土間が取り囲みその周りに各室が取り付くという内部と外部の中間帯を含んだ例もある。

 

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。故人を偲ぶ会を前に事務所のブログへも掲載させていただきます。

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形式論ノート(11)

形式というと建築を規制するかたぐるしいもののように考えがちだが、建築がある自由を獲得するための指標である。過去から継承してきた形式を現代どのように変容させるか(複数の形式の重層・形式をずらす等)と考えると可能性が見えてくる。それでは形式とは建築を創出するための下敷きのようなものか、あるいは、形式がなぜ必要なのかという疑問がわくかもしれない。これはウィトゲンシュタインがー世界の実体が規定しうるのはただ形式のみであるーといったように、我々の思考そのものが言語により規定されている。つまり建築も形式により思考される。それでは形式によらない建築とは、あるいは、形式の見えない建築とは。前者は建築とは呼ばないし、後者は形式から始まり熟成した建築である。形式から思考するが、それを感じさせない空間を創りだす事が建築することである。

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。故人を偲ぶ会を前に事務所のブログへも掲載させていただきます。

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形式論ノート(10)

江戸末期の古民家を再生した。大和棟を持つ住宅である。明治、昭和と増築されていたが初期の姿に減築し、元の形式に戻した。内部は土間と板間で構成し、間仕切りの建具は取りはらい、4畳半の畳だけを象徴的に板間に配し茶室とした。 大きな屋根の下に一続きの空間があるのだが、大和棟という形式のもとに自由な空間を獲得した例である。

 

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。故人を偲ぶ会を前に事務所のブログへも掲載させていただきます。

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形式論ノート(9)

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の一節を紹介する。

すべての対象が与えられるとき、同時にすべての可能な事態も与えられる。

対象はすべての状況の可能性を含んでいる。

事態のうちに現れる可能性が対象の形式である。

世界の実体が規定しうるのは、ただ形式のみであり、実質的な世界のあり方ではない。なぜなら、世界のあり方は命題によってはじめて描写されるものであり、すなわち、諸対象の配列によってはじめて構成されるからである。

 

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。故人を偲ぶ会を前に事務所のブログへも掲載させていただきます。

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形式論ノート(8)

大橋良介氏の切れの構造に関心を持ったのは次のような文章があったからだ。
 -「切れ」は日本のプレ・現代(モダン)の美的造形においてあらわれ、日本のモダニズムの中で、内なる異世界として作用していた。いま日本のモダニズムそれ自身の熟成の中で、「切れ」はポスト・モダニズムを成立させる鍵としてあらわれている。-
ーもしも「ポスト」・モダニズム建築というものがその名にふさわいい内容をもつとするなら、それの少なくとも一つの方向はこの「切れ字」もしくは切れを含んだ言語としての建築だということができる。なぜなら、切れとは、技術の粋を尽くして自然をある仕方で自覚的に切ることであった。自然はその切れをくぐって技術の中に、ある仕方で蘇った。-
建築を言語としてとらえる見かたは、C・ジェンクス「ポストモダニズムの建築言語」にみられるように、ポスとモダンの特徴のようだが、ヴァレリーもゲーテも言語として捉えていた。重要なのは言語のもっている構造主義的なパラダイムを逸脱することにある。建築におけるポスト・モダンはその部分を理解していなかった。

 

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。故人を偲ぶ会を前に事務所のブログへも掲載させていただきます。

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形式論ノート(7)

切れの構成法を思い立ったのは、大橋良介氏の「切れの構造」-日本美と現代思想ー中央公論社による。切れ・つづきというように、他者と切れることにより他者を際立たせ融合するという概念。(連続・非連続の概念とは異なる。)これは現代進行中のS邸のプロジェクトにおいて、平面形式と屋根の形式とを切れの構造で融合させられないかと考えているからである。
以下、大橋氏の世阿弥の「花」の部分を引用する。
 華麗と簡素という二つの相反する方向はここで、互いに切れて独立しながら互いのあり方のうちへ浸透していく。ここに「切れ・つづき」の構造が成り立つのである。この切れ・つづきは、繰り返していえば人間が「生死」というあり方を背負っているところから生じるものである。-中略ー余剰を切り捨てるということは、日常的な自然性を切るということである。しかしその切れを通して日常的な自然性が、いっそう深い相において蘇るというところに、型の切れの本質がある。

貴志 雅樹

※「形式論ノート」は貴志雅樹が生前自身のブログに綴ったものです。故人を偲ぶ会を前に事務所のブログへも掲載させていただきます。

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